昭和43年3月22日 夜の御理解   (末永信太郎)    №43-095



 いよいよ、明日は春の御霊様のお祭りを奉仕させて頂くでございますが。まあ、いつものことですが、本当にこの、たくさんな御霊様たちの喜びの声というか、喜びの姿というか。そういうようなものを見るように、または聞くように、その前後のことで感じさせて頂くのです。
 一人ひとりの御霊様が有り難うございますと仰るわけでもなからなければ、御霊様が姿を現してどうということはないのですけれども、本当に御霊様がお喜びになっておられうんだな。なるほど、明日のことを待ちに待ち望んでおられうんだな、と。
 もう、ここに、縁ゆかりのある限りない御霊様たちが、今日の日、いわゆる、明日の日を待ち、ある意味望んでおられるなというなことを感じるんですよね。私は今日は、明日の祝詞を奏上いたします。その原稿を書かせて頂いとったんです。それにですね、私の心の中に思い浮かべることを、まあ、こう、書き抜きに書かせて頂いた。もう、その、この紙にですね、この紙にパチパチパチパチ、お勇みがつくとですけん。
 もう、本当にですね、もう、これは神様の感動か、御霊様たちの喜びかは分からんのですけれども、もう、確かに、そういう御霊さまのね、生きた働きが、または、いよいよ生きて働きの出来れる御霊として望んでおられるかというような事をですね。いや、私、最近ここで、生神金光大神取次の道の働きが、ね、お互いの生活の現場において、と。ね。
 それぞれの持ち場立場、そこにおいて、そのごひれいが輝きますことを願う。今日は、私はその言葉をですね、御霊様の一人ひとりの上にです、生神金光大神取次の道の働きが、ね、明日、ここで御霊、お祭りを受けられる御霊の一人ひとりの上に輝きますようにというような、一番はじめにそんなことを書いた。そこで、お勇みを頂くんです。ね。
 おそらく、これは、まあ、神様の感動であろうと、こう思うのですね。雪霜を偲びて清く(ゆかしく)、香り出ずる梅の花、(咲きにおえる?)今日のゆく日のよき日に、とかですね。その、そういう一つの枕詞の中にもね、その、神様、御霊様がこう、ウキウキとして見えられるんですね。それけん私、ここの合楽のお広前に相応しい、春の身空ののどかに、未納の山の気高く、筑後の川の清く(なみたえらげく)聞こし召し(うれない)というような、書いておると、もう、私が泣き出したいごと感動があるんですよ。ね。
 またね、今も行く先も神の御教えさらに深く従い、生神の御側近くに仕え奉れる御霊としての奇しき妙なる(かくり世)の神業。補い助け奉れる御徳に進ませたまえとか。これは、御霊様ながらもね、教祖の神様の御側近くに奉仕が出けるような御霊の力を与えたまえという、ね。これは、もう、御霊様、全部の願いなんです。ね。これは、私どもには分かりませんけれども、神様の世界がある、御霊様の世界がある。
 その御霊様の世界が、神様の世界である、教祖の神様の世界にですね、御側近くに、例えば私どもが御本部に御参りさせて頂くようにです、金光様のお側近くに御取次が願えれるようなおかげの頂けれることを、という意味のことを書かせてもらう時にも、やはり、そういう感動があるですね。
 それか、あの、なお私は感動しましたことは、ここで、信徒教徒とまでは行かなくともですね、もう、たまに参る信者のことですね。そういう人達の、例えば、合楽教会信徒それぞれの上に関わりあえる全ての御霊の上に、ということなど。もう、その隅々に至るまでという、もう、ここの御結界のですね、隅々に至るまで、これは、まあ、御霊の世界とするかね。この隅々から、私は何かが声が送るように、あの、お勇みを感ずるんですよ。ね。
 本当にあの、そういうような、例えば、奇しぎなる働きのある中に、明日の御祭りが仕えられるわけでございます。もう、明日は何をおいてもですね、私の方は仏教じゃから、私の方はお祭りをお願いしてないからなんていうことじゃないです。金光大神御取次の道のごひれいをですね、いわゆる、私どもの身の上に、家の上にだけではない、遺族親族、全ての御霊様たちの上にもです、金光大神のごひれいを頂かせて頂こうという、その願いと、また、現世に私どものそういう願いが、また、必要であるということを痛感致します。まあ、その一つの実証のように、今日は四国の川上さんという方が、熱心にお参りして来ます。
 もう、一週間前ほど前から、御主人が、その方の兄さんに当たられる方が危篤の電報が参りましてね。ほれで、久留米に帰って来ておられます。それで、もう、いよいよ危篤状態でしたが、昨日一昨日亡くなられまして、昨日、お葬式が済んだんですね。ところが、その川上さんの奥さんも、だから昨日、今日、久留米の井上さんの姉さんに当たるんですよ。
 それで、あの、そのお葬式に参列されて、昨日、こちらに、久留米に泊まられて。今朝方ですね、もう、その、だから、その方のために、義理の主人の兄さんですね、義理の兄さんが生前そのままの姿でですね、表の方へ出られるんですもん、げな。それで、兄さん、貴方は今ごろからどこへお出でなさるですかって言ったらね、合楽の金光様にお参りをするよち言って仰ったち。ね。
 もう、以前に何年か前に、ここの御造営が出来端に、ここに、合楽の教会が出けますと言うて、その、どっか日田かどっかに遊びに一人で行かれる時にですね、そん時にもう、自動車の窓から、こう首を長うして、はあ、ここが出来あがったなら、私もどうでんこんでん、一遍参ろうち言いよんなさったそうです。
 それが、川上さんの御信心によって、亡くなられる寸前、もう、それこそ眠るように大往生のおかげを頂かれたんです。御神米を頂かれて、そして、あの、まあ、いわば、安らかなお国替えであった訳でございましょうが。ね。そういうようなことから、いかに私が、その、御霊様たちには助かられる場というかね、いわゆる、その、宿りの場というようなものが、あの、生きた働きのあるところにでなからなければ、それがなされないかといったようなことを、その川上さんのお夢の中からでも感じますですね。
 だから、その、ちょうど明日が、そのご法事になるそうですもん。その、何か取り、何か遠方から見えとりますかね、親戚が。そして、その、何ちゅうですか。何かのご法事があるでしょう。それを仏教で、その明日、なさいますんですね。それで、その、お祭りもちょうど昼からですから、お祭りが一緒になるかも知れない。けれども、まあ、玉串だけは取っときますからね、あの、後からでも良いから、どなたかお参りしなさいち私が申しましたら、いや、ここから井上さんが、そげなこつよりか、姉さんあなた、皆がおんなさらんで良かろうけん、貴女一人でもお祭りに参ったらどうですかち言って、カチッとお勇みがあるとですよ。ね。もう、いかにその神、私は、それは神様の働きか御霊の働きか分かりませんです、私にも。ね。
 ちょうどご法事が一緒になるからですね、もう、なら、私があの、私はまた、済んでからでも良いて、玉串だけは取っときますけん、玉串をあげるつもりでお出でなさいて私が言うたら、井上さんが横からですね、そげなん貴女、皆そげんおんなさらんでん良かろうけん貴女、姉さん、貴女だけなっとんお祭りにお参りさせて頂きなさったらどうですかて言うたら、そん時、お勇みがある。
 いかに、そのことを願っておられるかということが分かるでしょうが。皆さん、明日は何を置いても、ここにご縁を頂いておる、もう、全ての、もう、それこそ一遍しか参らなかった、二遍しか参らなかったという人達の上にでも、そういう関わり合い。また、私が今のように、ここは申しております。そういう関係のある、ここの御信者さん方の関わりのある御霊様方がですね、もう、隅から隅まで、明日はこの合楽のお広前に集まって、金光大神のごひれいを受けられようとする訳でございます。
 私ども、そういうごひれいに浴したい。私は、今夜また、夜通しでその御霊さん方の明日のスムーズなね、お祭りを受けられるように、今晩私、また、ご霊前に出らせて頂くわけでございますけれどもね。本当にあの、それこそ、神様の姿が見える訳でもなかなきゃ、話しかけて来なさる訳でもないのですけれども、そういう、私は御霊様のお祭りを仕える度にです、その前後して起きて来ることやらですね、すべての、その、現われが、なるほど、生きた神様のところに、生き生きとした御霊の助かり。
 例えば、遺族のためにでも働きかけられることの出来るようなおかげを頂かれることをですね、願っておられるかということを思います。この中にも申しております。どうぞ、私どもの上にも、ね、自己を肯定することのない、肯定しないでの済む生き方。また、否定もしない生き方。そういう生き方を頂きたいと願っておるように、この御霊の中にまた、ね、その御霊様の中には、中には非常に強情な御霊様もやっぱあるんですよ。そのために、今晩のお祭りも、またいるわけでございますけれどもね。
 言うて聞かせても分からんような御霊があるんです。だから、そのことを天地の親神様にお願いするということは、どうぞ、御霊一人ひとりの上にも、御霊自体が、自己を肯定することもなく、否定することもない。素直に明日のお祭りを受けられるようにといったようなことも、お祝詞の中に申し上げるつもりでございますけどね。本当に、今、現御広前でおかげを頂いておる。現御広前で合楽のいわば現在の信心の状態に、そのまま、御霊様もそれに神習られて、おかげを受けられることを、私は願いとしとります。皆さんも、そういうつもりで、明日の御祭りを拝まなきゃならんと思うですね。どうぞ。